抗生剤使用と薬剤耐性のはざまで
花粉のシーズンが一段落したこの時期でも、鼻症状を訴える人は多く見受けます。寒暖差が多い日が続く影響もあり、自律神経や知覚神経による鼻炎(いわゆる寒暖差アレルギー)や薄着や寝冷えから風邪をひくことも多いかと思います。熱も喉も痛くないのに風邪?と思われるかもしれませんが、風邪はウィルスが原因で通常は鼻の粘膜から感染への免疫応答が始まるため、咽頭痛や発熱に先行して鼻汁が症状として出ることはあります。
風邪はウィルスと免疫の戦いですので、ほとんどの方が既感染で免疫を獲得しており通常は何もしなくても自身の免疫で治っていきます。通常は3日目をピークに症状が改善していき、終盤には鼻粘膜の修復過程でもたらされる粘り気のある鼻汁が出てきますが、これもまた自己治癒過程の一つです。鼻症状が5日目以降も続く場合がありますが、そのほとんどはウィルス感染後の急性副鼻腔炎で、風邪と同じく自身の免疫で自然治癒してきます。こじれて細菌による急性副鼻腔炎に移行する方もいますが、その率は低く過去の報告では風邪をひいた人の0.5-2%程度とされております。
これらの報告結果と昨今の薬剤耐性(AMR:Antimicrobial Resistance)対策からの抗生剤の適正使用の観点から、急性副鼻腔炎に対する抗生剤の使用は可能な限り制限するようにというのが世界的に同意を得た治療方針です。もちろん、重症細菌感染症へ移行しては困りますので、適切な抗生剤使用は時に必要です。ただ、小児の急性副鼻腔炎においては、最も重い合併症である頭蓋内感染の原因が主として薬剤耐性菌であるというデータもあり、これは抗生剤の不適正使用が最重症細菌感染症を招いてしまうという皮肉な結果ですので、抗生剤を漫然と使用することのリスクを示しています。
耳鼻科領域を超えてAMRの問題は看過できないレベルまで来ており、このまま抗生剤の乱用が続けば2050年には薬剤耐性菌の感染症で亡くなる人数が癌で亡くなる人数を上回るという試算もあり、世界的に取り込む喫緊の課題であるのは事実です。ですので、抗生剤の漫然とした処方は避けなければなりませんが、慢性の副鼻腔炎や小児に多い慢性の滲出性中耳炎にはクラリスロマイシンやエリスロマイシンといったマクロライド系抗生物質(ML薬)という細菌の増殖を抑える抗生剤を少ない量で長期間内服するのが有効なのも事実です。ただ、いくら長期とはいえ、さすがに延々と飲み続けるわけにもいきません。過去の報告で10週続けても6ヶ月続けても効果が同等であったということから、従来3ヶ月での効果判定が推奨されてきました。有効であれば6ヶ月までの内服継続は検討されますが、AMRの観点からも効果がない場合は治療方針の転換が必要で、手術療法(鼻の内視鏡手術、小児であれば鼻の奥の扁桃腺であるアデノイドの切除)も選択肢の一つに上がると考えます。
最後に、このML薬に関する知見を一つ。ML薬はその抗菌作用よりも免疫調整や抗炎症作用に首座をおいて、前述のように長期投与されることが多いのですが、この免疫調整や抗炎症作用の新たなメカニズムが近年の研究で明らかになっております。このことによりML薬の免疫調整や抗炎症作用生体に限定した新薬開発が期待されるということで、ML薬が大量に使用されている現状を打破しAMR対策に貢献すると考えられます。AMRは細菌の進化そのもので、たとえ乱用がなくなっても細菌自身は生存のため改変していきます。乱用の是正で改変スピードを一旦遅らすことができても、新薬がなければいずれ人類は改変した細菌により多くの犠牲を出すことになります。新薬開発に期待しつつ、抗生剤の適正使用に努めていきたいと思います。
耳鼻科遺伝子治療への道
Covid -19のワクチン接種が日本でも始まってきており、日本ではまず米ファイザー社製が導入されております。従来のワクチンは不活化ないし弱毒化したウィルスなどの病原体を体内に取り込む形でしたが、今回のワクチンはウィルスの遺伝情報を取り込む形です。さらに細かく言えば、ウィルス抗原を体内に作り出すために『DNAを介さない=人の遺伝子に組み込まれない』のがmRNA方式(米ファイザー社や米モデルナ社など)で、『DNAを介する=人の遺伝子に組み込まれる』のがアデノウィルスベクター方式(英アストラゼネカ社や米ジョンソンエンドジョンソン社など)となっております。
こう聞くとアデノウィルスベクターの方に副作用の懸念が多くなるのは仕方ないですが、既にウィルスベクターワクチンとしてエボラ出血熱へのワクチンとして存在しており、海外では承認されております。ウィルスベクターとは、ウィルスが人に感染した時にその遺伝子を人の遺伝子に組み込む特性を用いて作成されたもので、毒性や増殖能力が無いように改変されたウィルスを用いた『遺伝子の運び屋(ベクター)』という意味です。ウィルスベクターはその特性から、望む遺伝子を生体内に入れて病気を治すという遺伝子治療の分野でも、先天性疾患の治療(生まれつき欠損している遺伝子を入れる)や癌の治療(がん抑制遺伝子をがん細胞に入れる)などで実用化されています。ただ汎用化(一般的に広まる)には安全性の検証はまだ十分とは言えないようで、欧州に続き日本でもアストラゼネカ社製の接種が見送られたことを考えると、改良を含めもう少し汎用化までには時間がかかるかもしれません。
ただ、ウィルスベクターの汎用化が可能となればいわゆる遺伝子治療の分野がより身近になる可能性があります。様々な医療の分野で病気のメカニズムが遺伝子レベルで解明されつつある昨今、先天性疾患やがんのみならず、耳鼻科領域でも不治の病とされてきた病にも遺伝子治療のスポットライトが当たっております。
近年の報告では、加齢性難聴は内耳(聞こえの神経につながる部分)のGAP結合(内耳の環境を整える重要な分子構造)の崩壊がその一因と言われており、それにより聞こえの細胞がダメージを受けて難聴を引き起こすと言われております。このGAP結合の崩壊を修正・安定化するような遺伝子も明らかになってきており、それらを内耳の細胞に組み入れることで加齢性難聴の予防や改善につながる可能性が報告されております。
また臭いの領域でも、絨毛(臭いの神経細胞上にある小器官)が正常に形作られないことで起こる難治性嗅覚障害の一種において、絨毛の形成に関わるタンパク質(IFT88)コードする遺伝子を嗅覚の細胞に組み入れることで嗅覚機能の改善が認められたことが動物実験の上で報告されております。
安全性の問題は乗り越えたとしても、組み入れた遺伝子がずっと働き続けるのか等まだまだ乗り越えるべき壁はあるかと思いますが、歴史を顧みると、奇しくも技術革新は戦争など特殊な環境のもとで躍進してきました。コロナ禍という特殊な環境下で医療の技術革新がより進むことによって、諦めていた病気が癒える日が近づくかもしれません。
インフルエンザワクチンの進化
「インフルエンザワクチン打ったのに家族全員かかったわ・・ホンマに意味あるんかな・・」こういう声も未だ聞かれる現状ですが、そんな中でも毎年この季節になると各病院や診療所でインフルエンザワクチン接種が始まります。僕が子供の頃はワクチン接種が学校で義務化されており、皆一列に並んで嫌々ながらワクチンを打たれていたものでした。詳しくは昭和51年から学童へのワクチン接種が義務化され、その後「ワクチンの効果」が疑問視され平成に入った頃には義務化から準義務化となりました。さらに平成6年には学校での集団接種はなくなり、それ以降は事実上の任意接種となり接種件数は激減する経緯を辿るのですが、この「ワクチンの効果」が疑問視された最大の理由は冒頭の声のように打ったのにインフルエンザにかかるという事実が、ワクチンが効いてないという「誤解」を与えてしまったせいだと言われております。
これがなぜ「誤解」かと言いますと、現状のワクチンはインフルエンザにかかった後の症状を和らげる為のものであり、決して予防では無いからなのです。ただ、症状を和らげる効果は科学的にも検討されており、平成6年以降に学童の集団接種が廃止された後に高齢者のインフルエンザ関連死が増えたこともインフルエンザワクチンの効果(症状の重症化を避けるという点)を裏付ける歴史的事実とされております。
では、なぜインフルエンザワクチンが感染予防ではなく症状緩和にしか効果がないかということですが、それは現状のワクチンが不活化ワクチンであり「血中の免疫」を上げる働き、いわゆる血中のインフルエンザ抗体を強化する効果しかないという点です。インフルエンザが感染するのはくしゃみや接触によるもので、ウィルスが目鼻や口の粘膜に侵入することで感染していきます。その後感染が成立すると遅れてインフルエンザ抗体が産生されて「血中の免疫」が作られていくのですが、感染の予防効果を目指すのであれば、感染が成立する前の粘膜の部分でウィルスをやっつけるいわゆる「粘膜の免疫」の強化が必要です。加えてこの「粘膜の免疫」はインフルエンザの型(A型・B型など)を超えて効果があるとされている点も従来の不活化ワクチンよりも優れているとされています。
近年、この「粘膜の免疫」を上げるインフルエンザワクチンの開発も進んでいます。いわゆる経鼻ワクチンと言われるもので、鼻から生ワクチンを散布して擬似感染状態を作り出して免疫を誘導するメカニズムです。日本では未承認であるものの欧州や米国では先行使用されており、従来の不活化ワクチンよりもメカニズムの上では効果は高いとされ、専らその感染予防効果に関しては一目置かれております。ただし、日本で未承認である理由として免疫反応が弱い高齢者にはうまく免疫がつかずに効果がないとされている点や生ワクチンであるがゆえに保存状態でその効果に変動があり、中々うまく免疫が獲得できないという報告も多くその効果が疑問視されている点が挙げられます。ただ、医学は日進月歩ですので感染メカニズムをさらに詳細に解明していくことで、免疫反応が弱い高齢者も含めしっかり免疫が獲得できるような経鼻(経口)ワクチンの開発が進められている現状です。
「インフルエンザワクチンをしたから、我が家はインフルエンザ知らず」そんな時代も近いかもしれません。